扉を開けて最初に目に入ったのは、鮮やかな藍(あお)。 横長いテーブルの中央に、それはあった。 薄く色が付いたガラス製の花瓶に隙間なく活けられたその花は、白で纏められた会議室の中ではまるで灯火のようで、一際目立っている。その紺色がかかった濃い藍色の塊の中には、よく見ると、桃色の花びらや白い花びらが混じっていた。 田能久健は花瓶に近づいて、花を一輪、掌に寄せた。最初は杜若かと思ったが、黄色い花の付け根に紫の網目があるのを見て、すぐに違うと気付く。杜若なら、花の付け根は白だ。そう教わったのを思い出して、健は整った眉を少し寄せると、花に寄せた手を戻した。 「おはようございます、田能久専務」 後ろから声を掛けられ、健は笑みを浮かべて振り向いた。 「やぁ、おはよう」 そこには印堂の秘書が書類を抱えて立っていて、少し強張った笑みを浮かべていた。手にしていた書類の一部を健に手渡し、今日の議題を軽く説明する。 部屋の中には、芹沢海運代表取締役である印堂陽とその下にいる専務、芹沢電工の専務、そして本社専務である健しか、まだ居なかった。そして彼らの秘書が数人、お茶や書類、機材等を用意している。部屋にある時計は、まだ予定の時刻より15分前を指していた。 「ちょっと、早く来すぎちゃったかなぁ」 何とはなしに呟くと、印堂が手招きしているのが視界に入った。 「おはよう、健ちゃん」 「おはようございます」 軽く会釈をして、彼の隣の席に腰掛ける。 「君んとこの秘書、どうしたの?」 一緒じゃないんだねと訊かれて、健は、手渡された書類に目を通しながら答えた。 「ちょっと『下』の用事をお願いしているんですよ」 『下』とは黒天狗党のことを指す隠語だ。印堂は、ああ、なるほどねぇと頷いた。 「ところで」 健は顔を上げて、真正面にある濃い藍色の花へと視線を移し、「誰が、あの花を?」と、声を潜めて尋ねた。 「りっちゃん」 「そうですか」 印堂の口から彼の秘書の名前が出て、健は視線を書類に戻した。 彼女なら、仕方がない。彼女は、知らないのだから。 「大丈夫ですかねぇ」 「どうだろうねぇ」 何が、とは言及しなかった。 「庭にね、たくさん咲いているそうだよ」 印堂が、花瓶を見詰めながら話した。 「それで、秘書室や応接間に飾るだけじゃもったいないから、会議室にも活けたんだって」 おそらく本人の口から聞いたのだろう。印堂の口調は、少し楽しそうだった。 「その方が、たくさんの人の目に触れるからって」 この会議室は、上層部だけでなく一般社員も頻繁に使っていて、いつも予約で埋まっている。確かに、秘書室や役員室よりもこの会議室に飾っておく方が、大勢の目を和ませるに違いない。 健は、花瓶に活けられた花を静かに見つめた。 紺色がかかった濃い藍色の花は、付け根が白いから、おそらく「美津島」だろう。その紺藍の塊の中で華やいだ雰囲気を醸し出している淡桃色の花は、「乙女の夢」。そして、その透明感のある淡桃色の花弁よりも白く輝くのは、「ひめごと」という名前だったはずだ。白花と付け根の黄色の対比がとても鮮やかで、緑の葉や藍色の花々とも爽やかに調和している。 健は、軽く息を吐いて、少し眉を寄せた。 専務になる少し前、品種の名前から見分け方まで、様々な花について教えてくれた先輩がいた。特に彼女は自分と同じ名前の花に詳しかったが、女の子を口説くには必要だからと、花に関する知識をみっちりと叩き込まれた。 それだけではない。社内での格好の隠れ場所とか、昼にお弁当を食べる時の穴場とか、食堂での美味しいお茶の入れ方だとか、『下』にある自販機で小銭を入れないで商品を出す裏技とか、あらゆる事を教えてくれた。 最後に彼女と会ったのは、傘を差すほどではない、けれど小降りの雨に包まれた日だったのを思い出す。 見下ろした彼女は、鮮やかな藍(あお)。 自分と同じ名前の花に囲まれた彼女は、二度と醒めることのない夢に、穏やかな笑みを浮かべいた。 あれから、5年。 “もう”なのか“まだ”なのか、健にはよく分からなかった。 「花があるのは良いことだよ」 健の沈んだ思考を遮るように、印堂は言った。 「良いことだよ、うん」 まるで小さな子供を言い聞かせるような口調に、健は苦笑した。 彼は、あれが何の花か知った上で言っている。 健は「そうですね」と目を細めると、渡された書類に視線を落とした。 それからしばらくして、ガタリ、と椅子を引くような音がして、健は書類から顔を上げた。 ちょうど花瓶の向こう、自分の正面に、東上別府鷹丸が立っている。 濃い藍色の花を見つめるその瞳は大きく見開かれ、驚きよりも、泣きそうな表情に見えた。しかしそれはほんの一瞬で、すぐにいつもの仏頂面に戻る。 鷹丸は、印堂の秘書から書類を受け取り、一言二言言葉を交わすと、すぐに自分の席に着いた。けれども、書類から時々視線を上げて藍色の花弁を見つめる瞳は、懐かしさではなく、辛さや悲しみといった類の感情が織り混ざっているように見える。 彼にとっては“まだ”なのだろうか。 昨日のように思い出せるのに、いや、だからこそ、あれから“まだ”5年であり、“もう”5年、なのかもしれない。 健はそう思った。
「ねぇ、鷹丸くん」 つつがなく会議が終わった後、健は、さっさと退室した鷹丸を追って声を掛けた。 「なんだ」 歩みを止めることなく、ましてや健に顔を向けることもなく、彼は不機嫌そうに言葉を返した。 「一緒にお昼に行きませんか?」 その言葉にようやく彼は立ち止まると、怪訝な表情を浮かべて、肩越しに健を見下ろした。 「もちろん、先約がなければ、なんですけど。今日は特に会食の予定とか入ってないでしょ?」 「だからといって、どうしてワシがお前と一緒に昼飯を食べなきゃならんのだ」 「ちょっと、今日は一人で食べる気分になれなくて」 鷹丸の横に並んでそう苦笑すると、彼は少し眉を寄せた。 「久し振りに社員食堂なんかどうです?新メニューが結構いけるんですよ」 「食堂は人が多くて好かん」 「なら、最近会社の近くに、ランチが美味しいお店ができたんですよ。知ってます?フレンチなんですけど」 「……一人が嫌なら、女でも連れて行けば良いだろう」 そう吐き捨てると、鷹丸は再びエレベーターホールへ足を向けた。 「ヒドイなぁ」 そう笑いながら、健は彼について歩く。 「あ、そうだ」 健が鷹丸の前に回り込んで、その不機嫌な顔を覗き込んだ。 「なんだ」 さっき、あそこにあった花の花言葉って知っています?」 首を少し傾げて尋ねると、鷹丸は露骨に視線を逸らした。 「さあな」 素っ気ない口調だが、健は知ってて言わないんだろうな、と思った。 エレベーターの扉が開くと同時に、鷹丸は先へと歩き始めた。 「あ、ちょっと待ってくださいよ」 「煩い。さっさと来ないなら置いていくぞ」 慌てて後を追う健に、鷹丸は振り向きもせずに言葉を続ける。 「安くて、美味い店にしろ」 ぶっきらぼうなその物言いに、健は苦笑した。 「この花は如何したのでござろう?」 その言葉に椅子を回転させて振り向くと、部屋の入り口に飾ってあった花瓶を、ヨロイ天狗が指差していた。その陶器製の白い花瓶には、濃い藍色の花が五輪、活けてある。 「貰ってきたんだよ、『上』で」 そう答えると、彼女は羨ましそうに掌に花を一つ乗せて、見つめた。 「確か菖蒲でござろう?」 そう尋ねる彼女に、健は、ソファーの椅子を勧めた。そこに彼女が腰を下ろすと、冷蔵庫からお茶を入れたボトルを取り出し、グラスに注ぐ。 「りっちゃんに頼めば良いよ。りっちゃん家の庭に咲いてたのを、持ってきたんだって」 「そうでござったか」 拙者も頂いてこようか……と呟く彼女に、健は、冷茶を注いだグラスを差し出した。 彼女はそれを受け取って、口元に運ぶ。 「その花の花言葉を知ってるかい?」 健はグラスの中身を飲み干すと、鷹丸と同じ質問をヨロイ天狗にも投げかけた。しかし彼女は、少し首を傾げて、眉を寄せる。 「“あなたの便りを待っています”だったでござったか……?」 「解釈の違いのせいなのかな。本によって結構違うんだけどね」 健は彼女の言葉に頷くと、指を一つずつ折りながら言葉を挙げてゆく。 「“忍耐”もそうだよね、あと……最近では“信じる者の幸福”も有名かな?」 「あぁ、ソレなら知ってるでござる。『太平記』の源頼政の話であろう」 「うん。それと……」 「それと?」 途切れた言葉の先を促すように、ルリ子が尋ねる。
「“あなたを信じる”だよ」 健は、銀色の仮面の下から柔らかな笑みを向けた。
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